ライブハウスへ
練習会に参加することを決めたものの、ひとつ大きな問題があった。
楽譜もなく、しかも知らない曲をどうやって演奏すればよいのか、まったく見当がつかないのである。そんなふうに悩んでいたら、練習会に誘ってくれた友人から連絡が入った。
「紹介したい人がいるんだけど」
その人はHiroさんという。音楽が大好きで、いまではライブハウスの株まで所有している。初対面だったが、私の山の話に大変興味を持ってくださり、会話は思いのほか盛り上がってその場で本まで購入してくれた。
そして話の流れでこう言われた。
「このあと、ライブハウスに行きませんか?」
ライブハウスと聞いて思い出すのは、数年前に行ったブルーノートである。
その日の記憶といえば、初めての屋久島で歩けないほどの筋肉痛になり、搬入用エレベーターで地上へ出たことしか覚えていない。
その夜、三人で向かったのは赤坂の雑居ビルの地下だった。
店の看板に「8」という数字が見えた瞬間、思わず胸が高鳴った。エヴェレストの標高、8848メートルの「8」である。もちろん店名の由来とは関係ないのかもしれないが、勝手にそう思うだけで気分が上がる。

店内は決して広くない。海外からの客も含めて、十人ほどが静かに席についていた。
ステージにはグランドピアノとドラムセット。ロングヘアの女性シンガーの美しい歌声が、店内を満たしている。
私の視線は、やはりドラムに向いて、演奏が始まって5分もしないうちに、そのリズムとビートに完全に引き込まれてしまった。
ステージの合間、ドラマーの方がHiroさんの席まで来てくださり、私を紹介してくれた。
次のステージまでの短い時間に
「実は練習会に参加する予定なんですが、どうしたらいいのか分からなくて……」
と相談してみると、にこやかな顔でこう言われた。
「レッスンしましょうか?」
ドラムを始めてまだ一年ほどだと伝えると、「大丈夫ですよ」と軽く言う。
大丈夫と言われても、何ができるのかは自分でもまったく分からない。未知数どころか、未知そのものである。

最後のステージでは、客席からのリクエストにも応えていた。
演歌であってもジャズに変わり、間奏では自由自在のアドリブ演奏が飛び出す。その即興の世界に、ただただ感動するばかりであった。
そして後日、レッスンの日がやってきた。
音楽教室で使っている教科書と練習曲のリストを見せると、すぐに練習が始まった。
「楽譜がなくてもできるように、小節を感じてほしい」
いきなり高度な話である。
最初に取り組んだ曲は、これは8ビートではない、、、というものだった。

「右手はこのリズムでライドシンバル。そこに右足、左足を交互に踏んで……はい、そこへ左手のスネア」
次々に指示が飛ぶ。
左右交互の足使いなど、これまでやったことがなく、体幹力も必要だった。
これまで習ってきたのは基本的な8ビートだけ。言われるまま必死に叩き続けていると、案の定、リズムが少しずつ崩れ始めた。
すると先生は、すっと目の前に立った。
スティックでハイハットを “このテンポ” と言わんばかりに、パン、パンと刻み始める。
厳しい口調ではない。だが、その真剣な教え方がどこかスパルタ教育のように感じられてしまい、思わず笑いがこみ上げてくる。
「歩く感じで。腸腰筋が大事」とドラムのレッスンなのに筋肉の話まで出てくる。
「これ、初めてやると体が傾く人が多いんです。でも山をやっているから軸がしっかりしてます」
そんなふうに褒めてもくれた。
さらに、スティックを一度上げ下げする間に二回叩く動きも教わった。
「包丁のみじん切りみたいにならないように」と説明される。
この一年では知り得なかったことを、短時間で次々と教わることになった。

数日後、新しい練習曲があると知らされた。
それが、あのライブハウスで聴いて釘付けになった曲 -スティービー・ワンダーである。
できる気はまったくしない。
Masumi先生にかなり簡単なパターンを教えてもらう必要がある。
そしてつい先日、さらに驚く話を聞かされた。
「8月にライブハウスで演奏する予定なんです」、、そういうのはやらないと聞いていたが、、
追加された曲に驚いている場合ではない。人前でのパフォーマンスなど、どう考えても無理である。急展開の出来事が続き、普段ほとんど口にしない言葉が思わず出た。
「まじっ!」
もっとも、8月は北海道に行きっぱなしの予定であり、物理的にも難しい。
まだ練習会にも参加していないが、練習会に参加するための練習がすでに大変なのである。
音楽教室の講師にこの話をすると、
「とても良いことですよ。上達の早道になります」と、笑顔で言ってくださった。
基礎練習はこれまでどおり音楽教室で続ける。
そして楽曲についてはMasumi先生に縋ることになる。
さて、どうなることやら。
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